学校沿革


昭和17年(1942) 4月
各種学校校令により、広島県立広島第一中学校内に、広島県立広島夜間中学校を併設、入学生徒84名で開校する。現在の定時制を発足。

昭和18年(1943) 4月
中学校令により夜間中学校を広島県立広島第三中学校と改称。太平洋戦争下、学徒動員が行われ、灯火管制下で授業を続行。開墾や学校給食を行う。

昭和20年(1945) 8月
8月6日原爆被災。校舎壊滅し、校長他職員15名、生徒366名被爆死。

昭和20年 (1945) 9月
翠町の一中寄宿舎(翠町)を学校本部とし、分散授業を開始。第三高等小学校(現翠町中学校)、船越小学校などで分散授業。電力不足による停電がしばしばあった。

昭和21年 (1946) 3月
広島第三中学校(現定時制)第一期卒業式を一中寄宿舎において挙行。76名が卒業し、直ちに同窓会を結成する。

昭和21年(1946) 4月
江波陸軍病院跡を校舎に転用し第三国民学校を2カ所にて授業。

昭和22年(1947) 2月
新築校舎落成式を挙行。

昭和23年(1948) 5月
学制改革に伴い、広島県立鯉城高等学校と改称。第三中学校は鯉城高等学校夜間課程となり、通信教育部を開設。

昭和23年(1948) 11月
新校舎に復帰。

昭和24年(1949) 3月
3月19日創立70周年記念式を挙行。創立以来の卒業生数旧制中学校6,627名、新制高等学校235名、併設中学校420名、夜間課程164名。

昭和24年(1949) 4月
本県高校再編成により、広島県広島国泰寺高等学校を開設。小学校区制・男女共学制による全日制普通科、生活科、定時制普通科及び中学校、高等学校通信教育学部を併置する総合制高等学校となる。

昭和24年(1949)6月
定時制の給食施設が完成。

昭和25年(1950)10月
定時制の二期、堀田晃(昭和26年卒)の作詞、音楽科講師、白井威彦先生の作曲により、国泰寺高等学校校歌「さみどり匂う・・・」を制定した。

昭和29年(1954)4月
中学校課程の通信教育廃止。

昭和31年(1956) 5月
定時制後援会が結成され、初代の会長に広島証券社長、斉藤正雄氏就任。

昭和32年(1957) 11月
11月15日、定時制15周年記念式を挙行。

定時制創立十五周年記念祝賀会(昭和33年卒業アルバムより)


昭和33年(1958) 10月
体育館兼講堂の竣工に伴い落成式を挙行。

昭和35年(1960) 6月
給食場を移転改装し、完全給食を実施。

給食場(昭和37年卒業アルバムより)


昭和36年(1961) 10月
学校教育法の一部改正により通信教育部は通信制課程となる。10月20日、定時制創立20周年記念式を挙行。

昭和37年(1962) 10月
定時制創立20周年記念式典を挙行。「鯉城の夕」の碑の除幕式を行う。

昭和38年(1963) 7月
雇用主と教師の会(ETA)を結成し、初代会長に東洋工業専務、河村郷四氏就任。

昭和39年(1964) 5月
動場照明灯6基完成、点灯式を挙行。

昭和40年(1965) 7月
テニスコート、プール竣工。

昭和42年(1967) 10月
定時制創立25周年記念式典を挙行。

昭和43年(1968) 3月
定時制のクラブハウス竣工。

昭和43年(1968) 10月
広島県高等学校設置条例の一部改正(県条例・第45号)に伴い、従来の校名「広島県広島国泰寺高等学校」に「立」の一字を加え、「広島県立広島国泰寺高等学校」として校名変更。現在に至る。

昭和46年(1971) 7月
後援会とETAを合体し、教師と保護者と雇用主の三者が一体となる本校定時制振興会を設立。

昭和47年(1972) 11月
定時制創立30周年記念式典を挙行。

昭和54年(1979) 5月
食堂、図書室、社会科教室、音楽教室、普通教室竣工。

昭和56年(1981) 4月
本館、テニスコート竣工。

昭和58年(1983) 1月
体育館兼講堂竣工。

平成3年(1991) 4月
広島県高等学校設置条例の一部改正(県条例・第19号)の施行により、通信制課程は広島県立西高等学校となり、国泰寺高等学校内の現敷地に独立、開校する。